【新唐人日本2011年1月28日付ニュース】余りにも大勢が香港へ脱出したため、深センの村の多くがもぬけの殻となった。1971年、宝安県公安局が提出した“年末報告大綱”によると、大望前、馬料河、恩上、牛頸窩、鹿嘴、大水坑などの村は、“無人村”に変わり果てた。中には、足の不自由な障害者1人だけが取り残された村すらあった。脱出者を収容するために、地元政府は百余りの収容所を新たに建設したものの、常に人であふれかえっていたという。
あの年代、香港への脱出は公然の秘密であった。誰かが脱出に成功すれば、その家族は隠すどころか、逆に他人の前で自慢したり、ひいては宴席を設け、爆竹を派手に鳴らし、祝う者すらいた。
広州市番禺の沙湾生産大隊(生産大隊:人民公社時代の農家の区域の単位、約300~500戸)では、生産隊長をトップとして、党支部書記と治保主任など全員が関わった脱出事件が発生。彼らが逃げた時、村民数十名が海まで見送りに行ったそうだ。恵陽澳頭公社の新村漁業大隊は、合わせて560人余りしかいないのに、そのうち112人がわずか数ヶ月で脱出に成功。大隊支部の支部委員6人のうち、女性委員を除き、他はみな全て香港へと脱出した。
陳秉安はかつて、ある伝記的な脱出者に会ったことがある。前後合わせて12回もとらえられた記録の持ち主である。13回目になると、国境警備兵もよく彼のことは知っており、再度逮捕するのはさすがに忍びなかったのだろう。こうして彼は晴れて、香港への脱出に成功したのであった。
命がけの戦いの陣地、社会主義のとりで、香港脱出を防ぐはずの“赤旗村”。この村の住民は、皮肉なことに、ほとんど脱出してしまったのである。
なぜ香港へ逃れるのか。この問いを陳秉安は多くの人に投げかけた。返ってきた答えは千差万別だったが、最も主な原因は、貧しさと飢えであった。
1957年、農村の集団化が一段とエスカレートし、宝安県は“農村資本主義発展の制限に関するいくつかの規定”を採択、人民公社社員の個人所有農地や副業収入を制限した。副業収入は一家の年間総収入の30%を超えてはいけないとされ、人民公社以外の農民は、開墾や転業(農業を辞めて商売を始めること)を禁じられた。“資本主義の抜け穴を徹底的にふさげ”、“男は全て労働力”:1年で260日間は働く。さらに農民の家に金銀宝飾があれば、全て地元政府に報告し、国有化された。
1958年には、広東省で深刻な飢饉が発生。ある資料によると、その年、広東省全土の食糧生産量は合計で177億5,800万トンに過ぎず、1958年よりも15.71%も減った。1960年も依然として減産の年で、平年より61億2,500万トンも収穫が減ったが、これは彼らの8か月分の食料に相当する。
香港への脱出者が陳秉安に語ったところによると、食事には基本的に、肉や脂は見当たらず、青菜でさえ珍しかった。飢えをまぎらわせるため、かつてバナナのくず、穀物の茎、パパイヤの皮、サツマイモのつる、ひいては一種の粘土さえ食べたと告白した。
当時、宝安県の農民1人当たりの1日平均収入は、大体0.7元。香港の農民の1日収入は、平均すると70香港ドルで、両者の差は100倍ほどに達した。地元で広く伝わっていた民謡には、こんな歌詞があった。“苦労して1年働くのなら、向こう岸への0.8元を使え”(香港に手紙で親戚にお金を無心することを指している)。